弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は日本史上たったひとり、皇室の血縁関係はないのに皇位をもとめた人物である。奈良時代末期に活躍してした道鏡は、当時の皇室が仏教に親しんでいるのを知り、あえて仏教の呪術をみにつけて出世をした。
道鏡は、山で修業を積み、祈りの力によって星の動きをかえる
宿曜占星術(しゅくよう占星術)を身につけたと伝えられている。この術は、仏教界では異端とされた密教の経典に出てくるものである。それは、己の体と精神を鍛えることによって思いのままに自然を動かせるとする考え方によってまとめられたものだ。
道鏡がその術を身につけて山をおりたとき、朝廷では聖武天皇の娘、考謙(こうけん)上皇が力をもっていた。彼女はただ一人、皇室を継ぐ者として独身ですごし、皇位についたという。彼女は病弱であったが、道鏡に出会ってからというものとても健康になったといわれている。上皇は、精神的なことが原因で体をこわしていたが、道鏡と意気投合することによって性格が明るくなったそうだ。実際には、彼女が体が弱かったため淳仁(じゅんじん)天皇に位をゆずり、先帝の立場で政治を見ていた。
そのあと、考謙上皇はふたたび皇位にもどり称徳(しょうとく)天皇となった。そして、大寺院に広い領地を寄付して仏教政治を展開していったのだ。道鏡は太政大臣禅師にまで出世した。
称徳天皇は、道鏡に位をゆずろうとまで考えたようだが、貴族たちの反対が激しかったため実現はしなかったそうだ。その道鏡だが、称徳天皇が亡くなると直ちに宮廷から出されたそうだ。
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- 2014/07/28(月) 20:56:51|
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役小角(えんのおづぬ)は、奈良時代初期の山岳修行者であった、日本の修験道の開祖として知られている。役小角は、葛城山(かつらぎ)で修業して、孔雀明王の呪法を身に着けたと伝えられている。
孔雀明王とは、密教でまつられている仏の一つである。孔雀明王の呪法をみにつけると、病気、毒、天災などあらゆる災難から身をまもり、人の運命を操る力があるとされている。また、鬼神(きしん)という霊魂を使い、自由に空を飛べるようになるとされていた。修行を終えた役小角は、人々に様々な法をほどこしたという。
日照りの年には雨乞いを行うと、田んぼの稲がよみがえり、病人が彼に会えば、みるみる元気になり歩き始めたとも伝えられている。とてつもない呪力の持ちぬしのため、朝廷は自分たちの地位が脅かすのではないかと、危険な人物として見られていた。
文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしているのではないかと、役小角は伊豆島に流罪となってしまう。このとき彼は、65歳であった。
役小角を乗せた船が港をでたときに、激しい暴風雨が起こるが、孔雀明王の呪法を用いて海を静めた。その話をきいた伊豆大島の人々は、役小角を神様とあがめたので、彼は島で思いのままに修行を続けることができた。しかし、一人だけ批判的な役人がいて、役小角を偽物の行者だとののしっていた。そこで役小角は、役人に呪力を見せることにした。その役人の目の前で巨大な岩を持ち上げてみせたのである。いくつもの岩が空中を飛び、音をたててぶつかり合う様子をみて役人はたいへん驚き、彼の力を信じたという。役小角は、島の気ままな暮らしを数年続けたのちに赦免された。
歴史を操った呪術師まとめ
- 2014/07/25(金) 19:53:21|
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あなたがもし、幸せになりたいとしたら自分でつくりださなくてはいけません。そのためには自分を深く知り、辛い経験も楽しい経験もともに魂を磨く経験だと考えて受け入れることです。その時、あなたの魂はたくましく成長します。それこそが、本当の幸福です。つまりそれさえできれば、私たちはつねに保障されている。それが人生を輝かせる法則です。
現世で起きる様々な苦難はグループソウルで必要な学び、小我を大我へと成長させるカリキュラムです。しかしそこで真の学びをするには物質的な価値観をすてることが不可欠です。物質的な損得を考えていたら現世での苦難は乗り越えられません。この苦難は自分のためにあるんだ。これは今の自分にとって必要なことなんだと考えて実践していくことが大切です。
では、現世での苦難とはなんなのでしょうか?
物質的価値観で物を考えていると、自分に苦難があったとき必ず考えるのが、駆け引きです。人はなんとかここをすり抜けないかと、あの手、この手を考えます。それでだめな場合は、神頼みを始めます。
あちらの占い師では効果がなかったから、こちらの占い師。というように効能だけを考えます。それも物質的価値観です。そういった人たちは効能だけを求めるのです。すぐ効果を期待し、魂を高めようとしないのです。神頼みでその時は、切抜けられるかもしれません。しかしやがてそれだけではきりぬけられなくなります。すると今度は、何かを奉納すればいいのではないかと思います。そうではなく、苦難とは、「神である自分」からの愛のプレゼントです。そして苦難とは自分のカルマの集積です。自分のカルマを一気に返済する人もいます。すこしづつ、すこしづつ返していく人もいます。
いずれにしても、挫折というものがなければ自分の内側に意識を向けることはできません。うまくいっているときは内観をこころみようとはしないからです。人はつまずいてはじめて、自分てなんだろう。人生ってなんだろうと考えます。これこそ自分が過去にまいた失敗が芽をふき花が開いた瞬間です。やけになったり、自殺などをしたらまた余計にカルマをつんでしまうだけなのです。私たちは、挫折ということを繰り返していくうちに自分の内側に目を向けられるようになります。やがて進化が輝いていくようになります。そして現世と
霊的世界がつながり、精神がひろがります。そうするとグループソウルと私たちのプラグがつながりやすくなり奇跡のような出来事がおこることが少なくありません。たとえば、素晴らしいアイディアがうかんだり不意に人があらわれて道をひらいてくれたり、または霊現象をみたり、そのとき私たちは、人間は肉体だけではないと体感するはずです。人智をこえた存在があるということに気付く、それが神性の発見です。つまりすべての苦難はあなたの神性を開くなの
愛のプレゼントです。
- 2014/05/24(土) 19:12:56|
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私たちは霊的世界のあやつり人形なのでしょうか?
これは大きな間違いです。なぜなら現世で私たちは自由意思が与えられている。つまり物質界で縦横無尽に生き、その中で多くの経験と感動を積み、より向上した魂(スピリット)になる。そういった自由があたえられているからです。
これはなことです。もしあやつり人形だとしたら、操っているのは誰でもないあなた自身なのです。様々な環境はすべて自分が選んだもの。つまり生まれながらにして絶対的に幸せな人、不幸な人はいないということでもあります。決して人の人生はさだめられているのではなく、私たち自身が人生を変えていく存在なのです。
また、自分の意志で人生をかえるのにはやさは関係ありません。時間のはやい、おそいという考え方も物質的価値観のひとつです。人生の中で気付きそこからまきかえしていく、それが大切です。自分で変えられるのが運命である。そして輝かしい明日を選ぶ力は自分にある。それが、運命の法則です。
あなたの人生の流れはあなた自身がつくりだす。これが
運命の法則です。世の中には運命が定められていると、何事にも運命のせいにする運命論者の方がいます。しかしあなたの運命はひとつにさだめられているものではありません。なぜならあなたの運命がすでに決まっていたのなら、この現世に生まれてくる理由がなにもないことになってしまいます。決められた人生をだらだら生きていけばよいわけですから、努力する必要もありません。でも人生は決してそうではありません。あなた自身が自分の意志で決めていくのが人生であり、それが生きるよろこびなのです。しかし、そんな人生の中においても変えることのできないこともあります。それは生まれてきたときにもっている要素。すなわち、宿命です。
- 2014/05/20(火) 16:30:49|
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